アンティークレースには、人々の美しさへの希求、より繊細で複雑なレースを作ろうとする意思、想像を絶するような時間と労力が込められています
現代では衣服は豊富にあり消耗品に近いですが、糸を紡ぎ布を織っていた時代、布や服飾品は貴重でした。布を繕ったり、刺繍をしたり、多くの人々の長い年月の様々な工夫の積み重ねを経て16世紀ヨーロッパでリネン糸を材料にレースが生まれました。17世紀から18世紀には王侯貴族の富と権勢を示すために宝石よりも高価なレースが用いられ、一国の経済をも脅かすため、何度も禁止令が出され、密輸、自国のレース産業の奨励など、ヨーロッパの国際関係や産業の盛衰とも大きく関わってきました。産業革命後、19世紀、流行のファッションに伴い、ブルジョワジーがレースの新たなブームを作りますが、さらなる機械レースの発展により、レースは誰でも容易に手に入るものとなり、ランジェリーやインテリアの装飾として豊富に用いられるようになり、産業としてのハンドメードのレースは衰退し、現在は一部の産地にあるレーススクールや、趣味の世界で、技術が受け継がれています。
レースの起源は諸説あります。 古いものでは古代エジプトの遺跡からボビン・レースがボビンとともに発掘され、「世界最古」と推定される奈良時代のニードル・レースが唐招提寺に所蔵されています。
レースは大きく二つに分類されます、組み紐技法を基盤にした「ボビン・レース」と、刺繍技法が元になった「ニードルポイント・レース」です。
ニードル・レースは、針(ニードル)で作るレースのことで、ドロンワークやカットワークの布部分の面積が減って、透かし模様の部分が増えていき、基布の織糸の一部を抜いて作った「透し」格子に糸を張り渡しボタンホールステッチをする技法(「レティセラ(小さい格子の意)」)からスタートし、基布を用いず糸だけで作る「プント・イン・アリア(空気に刺して作ったレースの意)」へと発展しました。
ボビンレースは何本もの糸を交差させたり捩じったりして模様を作る技法で、糸をボビン(糸巻き)に巻いたことからこの名前で呼ばれ、ピロウ・レース(クッションの上で作業するため)とも呼ばれます。
ニードル・レースはヴェネツィアの刺繍職人の間で、ボビン・レースはアントワープ周辺とヴェネツィアとの両方で、ほぼ同時期に産業化されるようになったようです。
レースの拡がりは、印刷術の発達とも関係性があり、16世紀、レースのパターンブックがヴェネツィアで出版され、貴婦人の趣味として好まれます。1587年ヴィンチオロがフランス王妃カトリーヌ・ド・メディチにささげた刺繍図案集は、以後17世紀半ばまで版を重ねたそうです。 当時のエリザベス女王やヨーロッパ各国の王室の肖像画には衿やカフス等レースの模様がわかるように描かれているのを美術館で見ることができます。
17世紀、装飾過剰なバロックのモード下、ヴァン・ダイクの1630年~40年頃の作品の肖像画に見られるようにボビンレース全盛となります。レースは男性のファッションに不可欠のものとなり、甲冑の上にも高価な大きいレースの衿をつけ、袖口にも、ブーツの縁飾り・靴下止め・肩帯・手袋・ふくらはぎの飾り紐や靴の甲につく薔薇飾りにも金レースとあらゆる部分にレースが使われました。
イタリアやフランドルからレースを輸入していたフランスではルイ13世の時代に次々とレース禁止令が出されます。 しかし17世紀後半には、ヴェネティアでより立体的で複雑な技法の「グロ・ポワン」が台頭し、フランス宮廷では、このグロ・ポワンが身の回りから、王室では家具にまで用いられ、1660年ルイ14世の摂政マザランは厳しいレース禁止令を出したが効果がありませんでした。コルベールは鏡などいくつかの産業の国営の製作所を作りましたが、1665年、セダンやアランソンなど数か所に王立レース工房を設置します。コルベールとヴェネツィア駐在大使間で、技術を持つ職人を流出させるための暗号を用いた密書が交わされたのに対し、ヴェネツィア側はあらゆる手を使い職人たちの出国を防ごうとしたのは有名なエピソードです。やがて、 フランスはヴェネツィア・レースを徹底的に模倣し本物と見まがうような技術レベルに達し、宮廷で国産品の着用を義務付け、ルーブルの画家たちにもデザインさせ、フランス独自のモチーフ(太陽やユリの花、大きな花瓶など)の「ポワン・ド・フランス」が高い評価を受けるようになり、逆にヴェネツィアやフランドルが「ポワン・ド・フランス」を模倣するようになっていきます。
18世紀、軽やかなロココスタイルとなり、女性がファッションをリードしました。レースは引き続き重要で、アンガジャント(袖口飾り)やラペットやキャップバック(髪飾り)にも大量にレースが用いられました。ポアン・ド・フランスから発展したアルジャンタンやアランソン,フランドルのメヘレン、バンシュ、ヴァランシエンヌなど繊細なボビン・レースが好まれた。レース1mの価格はそれを作る職人の年俸を超えるものが少なくなく、同重量の金を凌ぐ価値があったと言われています。一国の経済も左右するほどに高価で希少で贅沢だからこそ、レースの価値が高まり、より美しく精緻なレース、2度と作れないような豪華でレースが作られていきます。
しかし、衣裳の流行の変化(シンプルな衣装、モスリンに刺繍したものが好まれた)や産業革命やフランス革命の影響がレースに打撃を与えることとなります。18世紀末にはフランスとフランドルのレース産業はほぼ壊滅状態に至ります。代わって19世紀には機械編みのレースが台頭し、複雑な模様のレースが安価に大量生産されるようになりました。レース機械の発明と改良は、18世紀からイギリスを中心に進められていましたが、1830年代末には本格的な機械レース製造が可能になります。
19世紀初頭に影をひそめていたレースは、ロマンティック・スタイルやクリノリンとともに再び流行します。フランスのユージェニー皇后は大変なレース好きとして知られ、新しい機械レースの導入にも、伝統的手工レースの保護にも熱心でした。ルフェビュールはバイユーの工房で機械では当時真似できなかったシャンティーリやアランソンレースを復活させます。ヴィクトリア女王もウェディング・ドレスとヴェールを自国のホニトンで作らせました。このレースは36人の職人が1年半かけて完成させたといわれています。以後「白いウェディング・ドレス」にレースのヴェールをかぶることが好まれるようになりました。ブリュッセルでは最も華麗なレースと言われるポアン・ド・ガーズや、ブラバン公爵夫人とレオポルド2世の結婚式に使われたダッチェスレースなど素晴らしいレースが制作されました。またアイルランドやブラノではレースが飢饉時に多くの人の苦境を救い、伝統を受け継ぎながらも独自のレースが作られました。